昭29年クラス会旅行記          平成15年10月

 「やきもの探訪」としてのクラス会旅行も今年で5回目となる。10月7日北陸線金沢駅で元気に8名が集合する。最初の訪問先として小松から寺井町九谷焼資料館に向かう。九谷焼は赤や金色を基調とした日本の陶磁器とすれば色彩・意匠が絢爛豪華であって、加賀九谷村で発見された陶石を用い、肥前有田の技術を導入して窯を築き、焼製されたのが最初と云われている。嘗て「古九谷」が作られたのは有田か加賀か論争となっていたが、現在では古九谷は有田焼の一様式とされている。しかし何故九谷の名称が残されているのか、そして九谷村の登り窯が早々に廃窯になったのか、九谷焼にまつわる謎も多い。京焼の青木木米の指導での「再興九谷」は加賀藩のバックアップもあり幾多の変遷はあったが、幕末九谷庄三がいち早く洋絵具を採用、欧米人の趣向に適合する赤絵磁器を完成したことは、輸出により九谷焼の名を世界に及ぼした。 次いで寺井町観光課に紹介いただいた東忠雄工房を訪ねる。陶磁器は原料、成型、焼成、絵付けとその製造技術に大きな相異があるため、民衆が用いる小規模な日用雑器の製造以外は殆どが分業化され、これが中国であれば皇帝(官窯)、日本であれば領主(藩窯)や豪商(民窯)がシステム化していた。現在では企業・問屋がこの役割を果たしていて、この工房では老夫婦が絵付けのみを行っている。ここで九谷焼絵付けの特徴や、中でも興味を惹いたのは九谷焼独自技術の一つである金彩で、現物を手に金箔貼りつけの苦心などを説明していただいた。金彩は箔以外金粉、金液が使用される。自身の構想による染付などの皿も拝見させていただく。

浅蔵五十吉美術館は、九谷焼と云うより、寺井町出身で文化勲章を受章された浅蔵五十吉氏の作品が、色遣いの変化が判る制作順に展示されている。展示場の照明は極めて優れており、又その建築様式はユニークな美術館であった。館横にある寺井町のシンボルとして6万枚の陶板を貼った、高さ12.9mの「九谷焼ビッグモニュメント」前で記念撮影。
山代温泉の湯で疲れを癒し、膳に並べられた甘エビや土瓶蒸しと云った山海の珍味と飲み放題の酒で、お互いの近況、想い出そして快気炎を挙げ宴はなかなか尽きなかった。
 翌日も晴天に恵まれ、市の観光協会にお願いしていた観光ボランティア「まいどさん」に金沢駅で出迎えられ、観光専用のボンネットバスで兼六園に向かう。加賀藩五代藩主綱紀公が作庭、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望を兼ね備えたという謂われの説明を受け、有名な徽軫灯籠傍の橋上で記念撮影。有名な松の雪吊りには早く、花も少ない時期ではあったが松や苔の緑が陽に映えて落ち着いた雰囲気が味わえた。
金沢城は、金沢大学移転跡地に城の一部が復元され様相が新たになっており、市民の憩いの場にもなっている。尾山神社は加賀藩粗前田利家公と妻女まつが祀られて、その神門は独特なものであるが、何れにしろ前年の大河ドラマ人気に便乗したのか金沢観光地は大いに変化した感がある。長町の武者屋敷跡も、一般市民が自家塀を黄土色に統一するなど協力を惜しんでいない。駅に戻り金沢の名物料理である「治部煮」を賞味、直ちに帰宅する人、これを機に北陸観光を続ける人、来年卒業50年表彰時での再開を約して東に西へと散会になった。

(古丸 勇 記)